5.3 人間が判断を委ねてよいのか

AIの出す答えが、どれほど迅速で、どれほど客観的なデータに裏付けられていたとしても、私たちは立ち止まって考えなければなりません。「その判断を、本当にAIという機械に丸投げしてしまってよいのだろうか」という、人間としての根本的な一線です。

人間は、複雑な問題に直面したとき、どうしても疲労や迷いが生じます。感情に流されて判断を誤ることもあれば、偏見にとらわれることもあります。それに比べて、AIは24時間365日、疲れることもなく、感情のブレも一切なく、常に一貫した基準で確率を弾き出し続けます。そのため、特に医療の診断、司法の量刑、企業の採用、あるいは行政の福祉給付といった「重い責任を伴う現場」であればあるほど、人はその判断の重圧から逃れるために、AIの出す「数字」をそのまま鵜呑みにし、決定を委ねたくなる誘惑に駆られます。

しかし、どれほど「もっともらしい」正解をAIが提示したとしても、彼らに委ねてはならない、人間が最後の砦として死守すべき領域が確かに存在します。なぜなら、人間の行う「本当の判断」とは、単なるデータ処理や確率の計算ではないからです。

本当の判断とは、目に見える数値だけでなく、言葉の裏にある「感情」を汲み取り、その人が置かれた「複雑な背景や文脈」を思いやり、相手の立場に立って考える──すなわち「心で考える」というプロセスそのものです。

たとえば、裁判においてある被告人の量刑を決めるとき、AIは過去の何万件もの類似判例をスキャンし、「再犯確率○%」という無機質な統計数値を一瞬で出すことができます。しかし、その被告人がなぜその罪を犯さざるを得なかったのかという個別の悲痛な境遇、本人が法廷で見せた心からの悔悟の涙、あるいは被害者遺族の複雑な心情の揺れ動きといった、データに還元できない「生のディテール」に触れ、苦悩しながら判決を下すことは、心を持たないAIには絶対にできません。

AIには「憐れみ」も「寛容」も「正義感」もありません。そこにあるのは、冷徹な数式によるパターンの適合だけです。もし私たちが判断をすべてAIに任せてしまえば、社会は一見効率的ですが、血の通わないディストピア(暗黒郷)へと変貌してしまうでしょう。

さらに決定的なのは、AIには「責任を背負う覚悟」が構造上存在しない、という点です。

前述の通り、AIが誤った判断をし、それによって誰かの人生が台無しになったとしても、AI自身が罪悪感に苛まれることも、刑務所に入ることもありません。判断を下すという行為の裏側には、常に「その結果がもたらす重みを、自らの人生をかけて引き受ける」という、人間だけの尊い覚悟(責任)がセットになっているはずです。

便利だから、正確だからという理由で、私たちが思考することを放棄し、判断の主権をAIに明け渡してしまえば、それは人間自らが「責任を負う主体」であることを辞めることに等しいと言えます。AIは、私たちの判断を支え、選択肢を広げてくれる「最高のアシスタント(補助者)」にはなり得ても、私たちの人生や社会の舵取りを担う「意思決定者(主人)」にしては決してならないのです。

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